苦手と共存できるとき

苦手なものは、できるだけ避ける。

ごく普通の対処方法だと思う。

苦手なものに無理に関わる必要はないし、
わざわざ自分から不快な思いをしにいく理由もないからだ。

実際、それで特に困ることもなかった。

ただ、過去に比べて現在の私は
苦手なものとの関わり方が少し変化している、
ということに気づいた。

苦手なものに対して、
いちばん手軽で分かりやすい対処は「回避」だ。

距離を取る。
関わらない。
できるだけ影響を受けない状態を作る。

とても合理的な方法だと思う。

不快感を減らすことができるし、
無理に我慢するよりよほどいい。

ただ、このやり方は
「苦手なものの存在を自分の視界から消した状態」を
作っているとも言える。

いつからか、何がきっかけか分からないけれど、
気づいたときには、
以前とは少し違う感覚で
「苦手」を受け取っている自分がいた。

完全に好きになれたわけではない。
違和感がなくなったわけでもない。

それでも、
「苦手だと思っていたがそうでもない」
と感じる瞬間があった。

私は、魚や魚卵の生食が苦手である。
独特の食感や生臭さがどうしても好きになれず、
あまり積極的に食べようとはしない。

ただ、「もしかしたら食べられるかもしれない」
という淡い期待がいつもあって、
定期的に挑戦してみたりもする。
大抵の場合は、「やっぱりダメか…」で終わるのだが。

あるとき私は、たらこパスタに挑戦してみた。
見た目からして、いかにも自分が苦手そうだと思っていた。

一口食べてみた瞬間、
「あれ?意外といける?」
と思った。
もう一度パスタを口に運ぶ。
「なんなら美味しいかもしれない」

これまで苦手だったものが、美味しく食べられた。

ただ、そのとき感じたのは、
「苦手を克服できた」という感覚とは少し違っていた。

苦手なものが、完全に消えたわけではない。
違和感も、まったくなくなったわけではない。

それでも、
その違和感を含んだまま、
美味しさが成立していると感じた。

この経験以降、たらこは私の中で、
「基本的に苦手だけど、調理法によっては美味しく食べられるもの」
というポジションに変わった。

「苦手だから避ける/排除するもの」から、
「条件次第で共存できるもの」に変わった、ということになる。

これは、単に食べられるようになったというよりも、
自分の中の認識が少し変わった出来事だった。

こうした変化は、食べ物に限った話ではないと思う。

例えば、音楽の好みもそうだ。

以前の私は、
分かりやすい完成度の高さや、
技術的な上手さに惹かれることが多かった。

もちろん今でもその感覚は残っているが、
それだけでは測れないものにも、
少しずつ目が向くようになってきた。

歌詞の面白さや、
言葉の選び方、
その音楽が生まれた背景や文脈。

そうしたものを含めて、
「いい」と感じることが増えた。

あまり合わないと感じていたものが、
聴き方が変わることで、
違う印象に変化することもある。

これも、
苦手だったものが好きになったというよりは、
受け取り方が少し変わっただけなのだと思う。

考えてみると、
「苦手」や「好き」という感覚は、
ずっと固定されたものではない。

状態や経験によって、
少しずつ形を変えていく。

完全になくなるわけではないし、
すべてを受け入れる必要もない。

苦手なものは、避けてもいい。

ただ、
苦手なものが存在したままでも成立することがあると気づくと、
少しだけ余白が生まれる。

その余白が、
これまで選ばなかったものを
選べる可能性につながることもある。

回避と受容。

どちらが正しいとか、
どちらの方がいい、という話ではない。

ただ、
回避と受容を使い分けられるようになると、
体験できる世界の幅は、少しだけ広がるのかもしれない。

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